ダーレーアラビアン(Darley Arabian/The Darley Arabian、1700年-1730年)は、サラブレッド三大始祖の一頭として語られる1頭。玄孫のエクリプス (Eclipse) の血統が世界的に大繁栄し、主流血統を築いたため、現在の馬の血統を遡ると9割以上はダーレーアラビアンにたどり着く。
ダーレーアラビアンの活躍
画像引用:wikipedia
馬名(英名) | ダーレーアラビアン(Darley Arabian) |
生年月日 | 1700年 |
生産地 | シリア |
生産者 | 不明 |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
調教師 | |
馬主 | シェイク・ミルザ→トーマス・ダーレー |
競走戦績 | 不明 |
名前はダーレー所有のアラブ馬という意味で、シリアの遊牧民アラゼー族によって生産された純血アラブ種という見方が有力(ターク種という説もある)。
その後にイギリスに渡ることになるのだが、この経緯については諸説存在する。有力な説としては、シリアのアレッポ地方で遊牧民のシェイク・ミルザから、イギリス人のトーマス・ダーレーによって購買されたというもの。ただし、この購買過程において、イギリス側のエビデンスには「正当に購買された」とされているが、シリア側の主張は「取引を拒否したが略奪された」としていて、この点については見解が分かれている。
後に同馬を購買したトーマス・ダーレーは同馬のことを「彼は彼のハンサムな外見と非常にエレガントな馬体のためにとても印象的でした。彼は1722年にイギリスとアイルランドの主要な種馬であり、英国のサラブレッドの歴史の中で最も重要な種馬になる予定でした」と語っている。同氏に購入された後は現在まで「ダーレーアラビアン(Darley Arabian/The Darley Arabian)」と呼ばれている。(元々の名前も諸説あり、「マンニカ(Mannica)」「マニカ(Manica)」など表記ゆれと見られるものや「Rasel Fedowi(ラスエルフェドウィ)」と呼ばれるケースもある)
種牡馬としてのダーレーアラビアン
イギリスとフランスがスペイン継承戦争で争っている戦火の中、1704年にイギリスのヨークシャー州に到着したダーレーアラビアン。1704年から1719年ごろまで乗馬もしくは種牡馬として活動していました。この間、同馬を購買したトーマス・ダーレーは食中毒で逝去したため、オーナーが替り最終的にはジョン・ブリュシュター氏の所有馬になっている。(余談だが、トーマス・ダーレー氏は同馬の取引を巡った暗殺・報復説もある)
種牡馬としてのダーレーアラビアンは1704年から1719年ごろまで数十頭の繁殖牝馬と交配されたとされている。後輩相手はダーレー家の繁殖牝馬が中心とされているが、まれに外部の家が所有する繁殖牝馬とも交配していた。(レオナルド・チルダース大佐のペティリーズという牝馬との交配で直仔としての代表産駒に恵まれる)
ダーレーアラビアンとペティリーズの間に生まれた6戦6勝の歴史的名馬フライングチルダーズ(Flying Childers) は、当時世界最速の馬と讃えられ、サラブレッド初の名馬としてその後イギリスで種牡馬として活躍したが、直系としてスタンダードブレッド(アメリカントロッター)の父系としてわずかに残っている程度である。
フライングチルダーズの全弟のバートレットチルダーズ(Bartlet’s Childers) は不出走だったものの、種牡馬としての活躍は兄を上回り1742年イギリスで最優秀種牡馬に輝いた。その後、ひ孫のエクリプスが種牡馬として世界を席巻する活躍を見せることで、今日のサラブレッドの9割以上はエクリプス及びダーレーアラビアンにたどり着くとされている。
- フライングチルダーズ(Flying Childers)
- バートレットチルダーズ(Bartlet’s Childers)
- アルマンゾール
- アレッポ
- ブルーロック
- ワントンウィリー
- ブリスク
三大始祖としてのダーレーアラビアン
三大始祖としてダーレーアラビアンを語る上でやはり外せないのはエクリプスである。エクリプスは18世紀最強馬との声が多く、19世紀に入ってからも直系子孫が他系統を上回る活躍を見せ、今日では全サラブレッドの90パーセント以上をエクリプス系が占めるとされている。
なお、近年の研究では同馬と同様に三大始祖として語られるバイアリーターク・ゴドルフィンアラビアンと共に同馬もターク種である可能性が高まってきたとされ、三大始祖は近い関係であるとされている。
ダーレーアラビアンの血統
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